サヌカイトの地に育って
一般社団法人サヌカイトの里 理事長 野田 大燈

2021年4月15日は亡父の55回忌でした。両親は共に中国で生まれ育った。父は召集令状に従って軍隊に入り、憲兵隊に配属された。中国で産まれ育ったのだから当然のこと中国語が堪能であったことからか父は命令で敵軍のスパイ摘発や逮捕そして情報収集を行う特務の「野田機関」を創設し、数十名を配下に活動していたそうです。
その事について父は一言も口にしたことはありませんでしたが、父母の諍いのおりに母は「あなたは罪もない人たちを拷問したり殺していたではありませんか」と父を詰っていたのを数度聞いたことがあります。父は「それは戦時中であり任務だからだった」と答えていたのを覚えています。
昭和20年8月、第二次世界大戦で日本は全面無条件降伏をして終戦を迎えたのですが、中国に在住する日本人には全く知らされない儘に女子と子ども達のみ指定された駅に集結するように指示があつたようです。
父は情報機関に在りましたので敗戦の情報はいち早く入っていたので、母の乗った電車の椅子の下に憲兵隊時代からの友人と2人で息をひそめて隠れ潜んでいたそうです。
そうすると母が「あなた、もう列車が出発するから降りないといけませんよ」と言ったそうです。事情を知らない母にすれば当然の言動でしょうが父は特務機関にあっただけに、既に戦犯者として探されていることも承知していただけに、発見されれば逮捕死刑は免れない、と言う切羽詰まった状況だったのです。
幸にも無事に日本の港に着いてアメリカ人の所持物検査があったそうです。多くの人たちは荷物を没収されていたそうですが、父は検査官に対して「自分の荷物は自分で持てるから大丈夫だ」と英語で話したそうです。すると米兵が「オー! 、ユゥキャンイングリッシュ、OK!」と言って点検もなく素通りさせてくれたそうです。
そした無事に母の故郷である香川県に帰り着いたのです。

昭和21年3月21日、私は野田家の長男として誕生しました。
一時期は市内に仮住まいしていたものの、矢張り父には戦犯として「追われている」と言う不安な思いがあったようです。
昭和23年でしようか、戦後の救済施策として国は全国の可能な地域に開拓地を定め、開拓者を募りました。香川県では五色台と他幾地区だったようです。
そして応募した父に振り当てられた地が五色台でした。当時の応募者数は多くて、五色台だけでも約30世帯ほどだったようです。
その30世帯は開拓地として国が指定している場所を誰も承知をしていませんので、くじ引き方式で場所を決めたようです。
貰った地図を頼りに原野の樹木を潜り抜け、県の担当者と共に今後は終の棲家となるだろう現地を訪れた時の父の思いは複雑だったと思います。
五色台は海抜約400㍍の山間部ですので、大半の開拓者は山の斜面の樹木を伐採して畑地化してからの農業となります。
道なき道を分け行って割り当てされた地にたどり着いた時の父はどのような心境だったのかと思います。
生活に必要な最低限の水が流れている場所を見つけて歓喜したことでしょう。

県道から人がやっと通れる程の道をつけ、住居をどのようにして建設したのかは全く記憶にありませんが、その間は母と私は町中の仮住まいで生活していたのでしよう。
やっと最低限の生活空間の完成とともに親子3人の開拓地生活が始まったのです。
小学生の頃には私は家内労働者の一員として手助けをしていましたが、酸性土壌の荒れ地には大根を植えても人参ほどにしか成長しないのです。
更に厄介だったのは、ジャガイモやサツマイモの収穫には素手で土を掘って取り出すのですが、その土の中に鋭い切り口を持つ石が沢山埋もれていて、度々指先を傷つけてしまうのです。
父に問うと「これはサヌカイトと言うて地元ではカンカン石と呼ばれている。石器時代には矢じりや石包丁として使用されていたから切り口が鋭いので気を付けて作業するように」とのことでした。
これがサヌカイトとの出合いでした。

サヌカイトの地に育って
サヌカイトの地に育って

当初は五色台全体にサヌカイトが散らばっていてどの農家もサヌカイトで手を傷つけながらの農作業で難渋していると思っていましたが、その後そうではなく我が家と数軒のみだと分かりました。
どうして父はこのような悪魔のような危険な石が埋まっている場所を選んだのか、と不服に思っていました。
ある時、幼い私に父が跪いて目線を合わせて言いました。「いいか、父はこの地を遺す。お前はこの地に何かを創るだろう。しかしそれで完成したのではない。お前の子供の時代、つまり孫の代になって初めて完成するのだ」と。
私は中学生になって反抗期でもあったので、父の言葉に不信感と反発を以て聞いていました。農作業を邪魔するサヌカイトと酸性土壌の生育の悪い農地に嫌気がさしていたのです。高校進学を機会に私は山を下りて自活するようになり、父は50才の若さで他界しました。農業の担い手を失った家族は決意して農地や山林を処分して負債を清算して山を下りたのです。
処分した、と言っても農地には不向きな土地でしたので土地の大半は買い手が着かず放置状態でした。
当時私は愛媛県でサラリーマンをしていましたが、ある時勤務していた会社の社長から禅寺の和尚を紹介されました。それを契機に禅寺で坐禅を学ぶことになり、その後の紆余曲折から29歳の時に正式に禅僧として出家し、修行道場に入山することとなりました。
修行道場に入って判ったことは、大半の修行僧は寺院の子弟で、修行に行かなければ住職としての資格が得られないので来ている、と言うことでした。
私は寺院の子弟ではないので、修行を了えても帰るべき寺院がないと言う事です。

そして決断しましたのは、釈尊の時代に還って葬儀葬式をしない生きて悩む人達の依り處となる自給自足の共同体的寺院の建立でした。
そして修行を了えて15年振りに故郷の地に立ったのですが、そこはもう荒れ果てて家屋も畑も原野に近い状態でした。
その時に、父が私に話した「俺は土地を遺す。その土地に何かを作るのはお前だ…」と言う言葉が蘇って来たのです。
荒れ果てた土地を耕し、建設現場で不要になったプレハブを頂くなどしての必要最低限の建物を得て、再度鋭いサヌカイトの畑での農業が始まったのです。
「禅寺の自給自足共同体」が真新しかったのか、不登校児童を中心に、一時期は30人もの老若男女が生活していました。
そんなある日に、手にウイスキーボトルを手にしたお遍路さんが立ち寄り「修行したい」とのこと。一喝して「アル中が修行などできるか。修行したくば酒を断ってから出直して来い!」と追い返しました。その1年後に彼が訪ねて来ました。「酒を断ちましたので修行させて下さい」その後彼は正式に出家して修行していましたが、ある時「お師匠様、この地のサヌカイトで茶碗を作ってみたいがよろしいか」とのことでした。私はサヌカイト原石に穴を空けて茶碗を作るのか、と思いました。硬度7のサヌカイトをどうやって加工して茶碗にするのか?と思いましたが許可しました。
約1か月後に彼はニコニコ顔で「お師匠様、出来上がりました」と持参したのです。それはサヌカイトを微粉末にして粘土と混ぜて焼き上げた陶器でした。私は何気なくその抹茶碗の端を箸で叩くと「カーン!」と言うサヌカイト独特の音がしたのです。彼が言いました「そりゃあ元がサヌカイトですから」後で解ったのですが、彼は某国立大学院で分析を専門にしていたそうですが、ノイローゼから自信喪失してアルコール依存となり中退したそうです。
その後は自暴自棄から山谷・釜ヶ崎そして四国88カ所を巡って居て道場に巡り合ったのです。
彼は抹茶碗からのヒントから風鈴作りに挑み、素晴らしい音色の風鈴が完成しました。
これを機会に畑に散らばっているサヌカイトを全員で集めました。これを原料に抹茶碗や風鈴が作れる、と言う夢が生まれたのです。
今まで悪魔の石だったのが宝の石となったのです。

その後、「一般社団法人サヌカイトの里」を設立し、現在は「サヌカイ陶琴」と言う商標名で各種の楽器を製作するようになりました。
今年1月末頃に某国の国立鉱物博物館よりメールが入り「サヌカイト原石で縦横1㍍、高さ1.2㍍のサヌカイト原石が欲しい。そして加工した楽器も購入したい」とのことでした。
国内の仲介業者さんが現物確認に来られました。勿論、様々なサヌカイト原石が山林内も含めて転がっていますが、大きい物は重量が約3㌧もあり、搬出の為には山林周囲の伐採から始まり、重機と特殊車両が往来できる通路作りが必要です。その経費に100万円程が必要との事でした。
自分の土地ではありながらも深い山林内には必要がないので立ち入ることがなかったのです。
幾つかの対象となるサヌカイトを探していますと、一つのサヌカイトの一部に傷ついたカ所の有るものが目に入りました。
近づいてみると、横18㎝、縦9㎝の人間の眼に近似した形をしていました。そして
その茫洋とした眼差しに私は身の竦む様な思いに駆られました。
その無言の眼が何かを語りかけているように思えたのです。これは売却などすべき代物てはない、と直観しました。
そしてそのサヌカイトに「天眼の巌」と名付けました。

山林伐採・重機類の進入路つくり、など搬出不可能の条件が多々あり、最終的には重機の能力ではサヌカイトを吊り上げることが出来ない、と言う最悪の状況となりましたが不思議と私には天眼の巌自体が山から出たい、と言っているように思え、重機のオペレーターや職人さんに「心配いりません。天眼の巌自体が降ろし易いように軽くなると言ってます」と告げました。職人さん達の半信半疑は当然でしょうから、私は祈祷札を作製して仏前で「祈祷遷座工事安全」に入魂しました。
翌朝、私は天眼巌に祈祷札を貼り付け、て不安顔の職人さん達に言いました。「さあ、吊るしてみて下さい。軽くなっていますから…」昨日は重機の後輪が重量オーバーで浮いてしまい吊り上げが不可能だったのが30㌢吊り上がったのです。
私は1日費やしてでもサヌカイトを後ろ向きで少しづつ引き摺るりながらでも坂道を下してほしい、と言ったのですが「いゃ、和尚さんこれなら難なく下せます」と自信満々なのです。そして言葉通り約1時間ばかりで搬出できたのです。
天眼の巌は1㍍ばかりの台座に仮祭祁されて完成を見守っています。1350万年前の瀬戸内噴火による溶岩はサヌカイトの「天眼の巌」は、山林の中で囲繞するかのように置かれていた6体のサヌカイトと共に遷座されたのです。
先日、NHKの番組「プラタモリ」とかでサヌカイトが取り上げられたとかで急にサヌカイトの注文が殺到しました。何だか大きな力が作動しているのでしょうか。
現在の喝破道場にはどうした事か世に言う発達障がいの老若男女が集っています。私の夢はこの人たちとサヌカイトを製品化して多くの人達と関わり、製作する人・演奏する人、自給自足の農業に従事する人たちが自立できる「理想郷」の実現を考えています。
「俺が土地を(サヌカイト)遺す。お前はそれを世に出せ。でもそれが軌道にのるのは次の代、俺の孫の時代だ」
天眼の巌から亡父の声が聞こえてきました。

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